私のぐりーふワーク

TwitterやFacebookをどこかで整理しなくちゃいけないと思っていた。

そこに発信することの意味を考えていた。

楽しいことや、社会的な発信とは別の私の喪失の物語、呟きをそこにすることの意味はなんだろう?

そこに発信してどうなる?

そんな気持ちになった。

一度リセットしたい、そう感じた。

新しい年を迎える瞬間は私にとっては亡き人との大切な時間。

今年もその時間を静かに迎えたいと思う。

一年乗り越えたなあ、ご苦労様〜、と亡き人は私に言う。

ありがとう、と私は貴方の見守りに感謝をする。

貴方のいない一年をまた歩けた自分を褒める時間だ。

また亡き人の待つゴールに少し近付いた。ゴールで亡き人が両手を広げて私を迎えてくれると信じている。

だからちゃんと歩く。

そんな時間を持つ準備。静かにこの一年を振り返りたい。

急に泣きたくなったのだ。

誰からも何も言われず心配もかけず関心も持たれず自由に一人で泣きたくなった。

Facebookに発信するのを少しやめてちゃんと悲しみたくなったのだ。

誰も私に何も言わないでね、と。

そんなことを思っていたタイミングで昨年の春に稲村の夕日富士を一緒に見て泣いてくれた友人から朝メールが届いた。

思い立って急に七里ヶ浜に来て朝日と富士山を見たらしい。私とみた夕日富士とこれで一対。夫さんの供養に私にも是非とのこと。

そうだね。

あの湘南で見た夕日に浮かび上がる富士山は素晴らしかった。美しいなあと素直に泣いた。

貴方も一緒に見てるよねと泣いた。

彼女は「貴女にとっては泣く場所と時間も大切なテーマなんだね」と言った。

そうなんだよね。

どこでどう泣くか、どう亡き人と語り合うか。

大切だ。

そして発信する意味も考えてみる。

私にとってそれはどんな意味をなすのか?ぐりーふワークとしてはどんな意味をなすのか?

ここへ来て少し同じ体験の方と語りたくもなっている。

ゆっくりそのことだけを思って語る場を持ちたいと思い始めた。

そうやって日々変化しながらぐりーふワークはまだまだ続く。